像(イマージュ)という言葉は評判が悪い。(註1)
M.メルロー=ポンティの生前、最後に出版された論考である「眼と精神」は、1961年に『アール・ドゥ・フランス』誌第1号に掲載された。そこでメルロー=ポンティは、上述のように「像」(以下、イマージュ)の評判の悪さをあげつらうのだが、別の場所ではまた観察不可能性から、そこに「一種の本質的な欺瞞」さえ見出している。少なからずこの否定的な態度が、『想像力の問題』を著したJ=P.サルトルに向けられていたことを差し引いたとしても、「イメージの時代」が強調された1960年代において、イマージュは人々を魅にしながら、同時にその概念の不確かさゆえにいっそう多くの人々を困惑させたといえる(註2)。そして、それから半世紀を経た今、イマージュはシミュラークルへと接ぎ木され、変質を果たすことで、その指示作用の機能不全はより蓋然的となり、もはや形骸化してしまったとさえいえるだろう。
それでも本展「Pandemonium」の出展者は、絵画でのイマージュの作用について、いくらか肯定的な身振りを演じているかのように錯覚される。例えば、三原色の筆触分割により多重化した植物を描く石井友人や、ラファエル・コランの《花月(フロレアル)》(1886)の図像を、自身の裸体像と取り巻く生活空間によって代理=表象する梅津庸一のように、写真や作品図版といった既成の図像が用いられながら、それらが生産(ポイエーシス)・制作の中に複雑に組み合わされている。作家間にみられるこの構造的差異からは、絵画による世界の再現=表象において、世界そのものが共約不可能な状態にまで微分化されていると指摘できそうだが、このときメルロー=ポンティが「眼と精神」のなかでヘラクレイトスの言葉を引用し、それぞれの世界が視覚によって共同の世界へ開かれると述べた事態は、決して生起しえない。そもそも、そこでは共同の世界への開かれの可能性は視覚にこそ担保されており、かつ肉眼をもつ私たちは特権的な〈世界の測定者〉として定義されていた。しかし、本展において石井が「私とあなたの闇」を「ブラックボックス」として解釈しようとする欲望には、石井の描く画面のごとく分割された世界像がアプリオリに設計されており、そのような光を遮る箱の内奥へと導かれていく視覚そのものに懐疑の眼差しが向けられている。
このイマージュが表象の手段に用いられながら、根源的には視覚の排除という欲望が潜在していることを、私たちはどのように理解するべきであろう。あるいはこの問いは、次のように言い換えてみてもいいだろう。視覚の断絶による再現=表象の不可能性に直面するとき、絵画は何を表象しうるのだろう、と。この問いに対して、本展の作家が用いるイマージュの指示対象の決定不全性は、一つの手がかりとなりえるかもしれない。田口和奈の作品にみられる人物のように、そこではイマージュの不特定性、多数性によって、国籍や性別、年齢といった元来人物が備えうる情報が剥奪され、匿名的であるがゆえに現前と不在の間を常に揺れ動いている。さらにこのことに加え、本展の作家の多くが写真というメディアを絵画の制作行為の中に、あたかも存在を担保する証として内在化していることも指摘しておくべきであろう。田口の作品にみられるような撮影する/描くという制作行為の重層性は、ここでもまた現前/不在の項を揺さぶり続ける。
このような現前と不在の明滅について、ジャック・ランシエールは「表象不可能なものがあるかどうか」という、まさしく論文名が指し示すとおりに、表象不可能な条件下での概念的形象の可能性を模索している。そこでは崇高と芸術の関係のように、その体制や諸条件が問題とされ、表象されるべき対象の本質的現前の不可能性や、あるいは対象の代理物の喪失について(註3)、また「意味と非意味の一致」と「現前と不在の一致」が同時に生起する場における表象的な調整の失墜が語られている。さらに、ロベール・アンテルムの『人類』のエクリチュールに、強制収容所での体験としての「小さな知覚の並列的な連鎖」(註4)を見出しているのだが、ランシエール自身も並列的なエクリチュールが特殊な体験から生まれることに留意しているように、イマージュの失調によって顕示や意味作用が希薄化した像にこそ、その連鎖は転移されるべきではないだろうか。
絵画の筆致にみられる生産(ポイエーシス)・制作としての小さな行為と小さな知覚の連鎖について、今一度メルロー=ポンティの思考に立ち戻ることが許されるならば、そこでは「見える世界」と「私の運動的企投の世界」が、同一の存在の全体を覆うものとして措定されていた(註5)。だからこそ絵画で表象される画像には、身体的運動が「瞬間的視象」となって、痕跡のうちにその持続が内包されることとなる。しかし、絵画が他者との了解不可能性によって、世界の再現=表象が脅かされ非視覚的なイマージュとして表象されるならば、メルロー=ポンティがいうような等質的な〈身体の時間的遍在性〉は、小さな知覚によって不可逆的な断片化がなされることだろう。そのとき、絵画の画面に描かれた対象は、動きの瞬間的な視象ではなく、むしろ多重性を孕んだ存在の視象となって表象されている。現前と不在の一致がもたらす多重的なイマージュは、芸術の不能に対する絵画の存在論的な問いかけとして、非視覚的に再現=表象される絵画そのものに宿るのだ。
註 註1 M.メルロー=ポンティ「眼と精神」『眼と精神』(滝浦静雄・木田元訳)みすず書房、1966年、p.261。 註2 1967年6月に刊行された『デザイン批評』No.3では、「イメージ」が特集された。そこではイメージ論の隆盛に警鐘を鳴らし、イメージの対抗としてのオブジェによる「物質の眼差しの組織化」の企てを画策している。また、中原佑介は「イメージ」という言葉を「落ち着きを失って途方にくれてしまう」ことを吐露している。針生一郎「イメージ論の流行」/中原佑介「イメージの所有について」『デザイン批評』No.3、風土社、1967年。 註3 ここでは、サルトルのイマージュ論にある「類似代理物(アナロゴン)」に注目するべきだろう。描かれた肖像を私たちは「類似代理物」の働きによって、外部の対象という不在の人物に対しての思像的意識を有するとされる。しかし、本展の作家が描く肖像は現前と不在の一致によって構成されることで、「類似代理物」の作用そのものを失効させる。 註4 ジャック・ランシエール「表象不可能なものがあるかどうか」『イメージの運命』(堀潤之訳)平凡社、2010年、p.162。 註5 註1前掲書、pp.257-258。