1 凍結のドキュメント
本企画のパート1がライトモチーフとする「地底」は、ニコライ・スミノフのテキスト・ピース《Chthonopolitics(地下政治学)》(2022)が書き留めているように、死、潜在意識、非理性といったものと関連する比喩形象である。この「穴の底」は、地上の世俗的な生や「自我」によって隠され、抑圧される一方で、それらを条件づけ、ときには破滅させもする、力学的な場を構成している。 パート2において標榜される謎めいた概念「ミラーレス・ミラー」については、また後で検討を試みよう。だがそれは少なくとも、「鏡」にまつわるものであるらしい。ここではひとまず、鏡の経験が一般に「視線」の経験であること、そして「鏡なき鏡(ミラーレス・ミラー)」という自己否定的な修辞が、定着面を喪失してあてどなく漂流する、行き場のない視線の亡霊めいたニュアンスを醸成するだろうことを確認しておきたい。 というのも筆者は、この孤立した「視線」がまさしく「地底」に凝結した形象を、2019年に開催された「わたしの穴 美術の穴」の前回企画で目撃していたからだ。同企画において高石晃は、深く掘った穴の底に、遠近法的な集束のかかったオブジェを造形していた。絵画的なパースが視点、そして距離を隔てた複数の対象相互の関係性を踏まえることで適切に設定されるのだとすれば、高石のオブジェは、パースの歪みがかかったまま画面からそれだけが切り出されてきたようであり、また画面に対峙してではなく、穴の上から見下ろすことしかできないために、「視線」の要件を喪失した視線、関係性のうちに位置づけられない孤独な視線の様相を呈していた。それはいわば、永久凍土に取り残された視線だった。 今回の「地底人」パートにおいてスミノフは、「死、不死、そして地下世界の力」と題した「展示プロジェクト」を展開している(2019年のウラル・ビエンナーレで発表された内容の再編成)。私たちは、こうした形式自体に留意しておくべきだろう。なぜなら、「わたしの穴 美術の穴」はこれまで、「展示」のフレームそのものに関するキュラトリアルな操作――先行世代による展覧会への検証的アプローチや再制作、複数の展示会場による構成など――を一貫して試みてきたからである。「地底人とミラーレス・ミラー」も、アーティストによる自作・他作のキュレーションという前回企画の手法を踏襲するものであり、また企画全体が、分割された2つの展覧会から構成されている。そしてスミノフによる「展示プロジェクト」は、いわば「展示内展示」として、キュレーションを入れ子状にしている。 「死、不死、そして地下世界の力」において、観者はタブレット型端末の複数的な布置へと歩み入り、床に直置きされたディスプレイを眺めまわすことになる。他者の「視線にさらす」という「展示」の働きが、そこでフレームアップされるだろう。さらに、これらの画面に表示されているのは、他のアーティストや研究者による作品や活動記録であり、「制作/活動」と「展示」の間には、複数の関与者が介在している。 ボリス・グロイスは、自己統治的な作者概念から、展覧会を目標とする諸々の選択・吟味・決定――そこではアーティストだけでなく、キュレーター、委員会、財団、公共機関を含む複数的なファクターの間で責任が分かち合われる――によって構成される多重的な作者性への転回を踏まえつつ、対象物を「展示」する営為それ自体に創造性が認められる状況を分析している。作者性のこうした新たな定義に関連して、展示されていない作品は生を保持するものとしての芸術ではなく、代わりに芸術の「記録(ドキュメント)」となる。逆に言えば、こうした「記録」は「展示」されているときにこそ、芸術=生を回復する。
美術の制度の内側では記録を展示するだけでそれに生命を与えることができるので、美術のアーカイヴは特にこの種のプロジェクト、過去のあるときに実現されたか、もしくは将来実現されるプロジェクトをアーカイヴするのに最適であるだろう。そして、とりわけユートピアのプロジェクト、決して完全には実現されることのないプロジェクトのアーカイヴに適しているのである。これらユートピアのプロジェクトは、現在の経済的、政治的な現実のなかでは失敗する運命にあるが、芸術のなかでは存続することができる。そのなかで、これらプロジェクトの記録は絶えず受け継がれ、作者を変えつづけるのだ。(註1)
スミノフの「展示プロジェクト」を構成するイメージはいずれも、死、不死=保存、再生といった「生」のサイクルに関連するトポスとして、地下を参照するものである。たとえば、永久凍土の地下に、永遠の保存(物質的な不死)を可能にする博物館を建設することを計画した、1920年代のソ連におけるユートピア的プロジェクトを扱うイリナ・フィラトヴァのヴィデオ・インスタレーション《永遠の地下美術館》。あるいは、良好な状態で発見されたマンモスの死体の解剖記録。後者の映像資料は、マンモスのクローン作成に取り憑かれた研究者たちによって撮影されたもので、永久凍土からマンモスの体液が流れ出す光景を捉えている。
2 生き延びのトポス
ここで、次の二点を確認しておこう。第一に、「死、不死、そして地下世界の力」を構成する、(上に挙げたものを含む)4点の作品/記録は、いずれもがタブレットへのイメージ出力という同型の形式を備えているために、一見して個々の映像が「作品」なのか「記録物」なのかを判別しづらい。少なくとも筆者の鑑賞時には、どのタブレットもスライドショーのように単調なイメージ再生を実行しているように見え、各々が相互に何らかの関連性をもつ、アーカイヴァルな記録集積の様相を呈していた。第二に、これらのイメージそのものが、すでに触れたように、不死や生を与える目論見に関連するものである。マンモスが流す「血」は、長い眠り=凍結から醒め、再-生された生物の象徴的形象であり、クローンという技術もまた、ある種の「生き延び」を実現するものだ。 グロイスの議論を踏まえるなら、スミノフの「展示プロジェクト」は、地底からの再-生というテーマにふさわしく、記録の「展示」を通じて「生」を賦活するアート・ドキュメンテーションの手法を活用したものであると言えるだろう。グロイスによれば、記録を必要とするのは死すべき運命にある生であり、「不死であるものをあえて記録する必要などない」(註2)。 「永遠の博物館」のモデル――不死の獲得を目論んだ、永久凍土科学の創設者たちの肖像画が並ぶ地下研究室――の記録をヴィデオ・インスタレーションとして「展示」し、地上の視線にさらすフィラトヴァの映像は、その意味では倒錯した試みである。それは、死であれ不死であれ、ついに恒久的な属性としては決定されず、不死=保存が「永遠の生」ではなく「再-生」に向けた仮死的な待機状態と見なされる、「地底」という次元の複雑な定義を裏づけている。本展において地底とは、単なる閉域ではなく、「穴」を通じて地上=世俗的な生へと呼びかける、力動的な地形のことであるだろう。 前回企画にあった高石による地底の造形物は、本展の《地底表面》(2021-22)でも(フォルムは異なるが)試みられている。しかし、かつて「孤独な視線」の様相を呈していたオブジェは、今度はむしろ、積極的に他者の視線と交わる仕掛けを施されている。ギャラリーの地下空間に造られたオブジェの映像が、リアルタイムで中継され、床置きされたモニターへと出力される。地底の事物はスミノフと同様、記録的に媒介され、観者の視線にさらされているのだ。 「わたしの穴 美術の穴」は、その2015年の発足以来、1970年に高山登の下宿先の空き地「戸塚スペース」で開催された野外展示「スペース戸塚 ’70」、とりわけそこに出現した「穴」のうちに、歴史的・社会的・心理学的な「裂傷」を読み取り、その傷を現在=〈わたし〉へとトラウマティックに回帰させ続けてきた(註3)。本展では、高山による《地下動物園》(1968)の再制作品が展示されている。 高山が「スペース戸塚 ’70」で制作した《ドラマ地下動物園2》(1970)が、物理的な「穴」を掘削するものだったのに対し、階段状の部分と舞台のような水平のフレーム部分からなる本展出品作は、地面に介入することなく据え置かれるオブジェである。しかしながら、ちょうど踊り場のような水平面は、フレームに囲われた空白の領域として示されており、床との間に浅い垂直空間を生じさせている。この浅いくぼみは、その下に続く「穴」を仮想的に示すのに十分だろう。 高山が素材として使用する枕木は、鉄道敷設や炭鉱開発といった近代的な国家政策にまつわるファウンド・オブジェである。抑圧のもとでこうした政策に従事した幾多の身体が、《地下動物園》の地底に折り重なっているようにさえ思えるのは、絞首台へ続く「十三階段」が本作に投影されていたというからだ。縁取られた開口部、この底抜けの舞台はまるで、何かを発そうとする口腔にも見える。そこに聴取されるかもしれない声もまた、亡霊めいた「生き延び」を担う質料だろう。本作が最初に発表された展示でのパフォーマンスにおいて、地中に埋まった高山が首だけを出し、物を咥える姿が記録に残されている。
3 主体の飲み込み
高山の開口部が「口」として読まれうるならば、この隠喩は「通路」としての「穴」を、さらなる意味作用へと押し開く。すなわち、それが対象とする地表の領域全体を「飲み込む」圧倒的な包摂である。穴の暗がりのなかで、飲み込まれた者は、その穴の形状や規模も、また自らの位置あるいは他の存在の有無も、客観的に把握することはできないだろう。つまりこの「包摂」は、内部への単なる取り込みではなく、内部/外部という境界の識別をそもそも困難なものにしてしまうような、座標の排除を伴う経験である。本企画のパート2、「ミラーレス・ミラー」はまさしく、こうした「飲み込まれ」に関わっている。 通常、鏡のリテラルな本体は一枚の物理的な板であり、その表面に映るイメージがいかに私たち自身に似ていようと、それは「本当の」私たちではない。私たちの有機的な身体は、無機質な板ではないからだ。鏡の円滑な反映面は、そうした他者性を押し隠すことで十全に機能する。実際、私たちは鏡のうちに、板ではなく、「自分自身」にほかならないイメージを看取している。だが同時に鏡は、ある水準において他者性を主張してもいる。というのも鏡像は、「ここ」にある生の肉体を、空間的に隔離された「そこ」(鏡)へと疎外するものであるからだ。私たちは、「自分自身の」イメージを(鏡の上に)所有するため、すなわち〈わたし〉になるために、原初的で直接的な「ここ」から追放されざるをえない。 原初的な肉体、すなわち生まれたばかりの子どもは、「穴」の暗闇にあるような状態だろう。それ自身の姿を認識することができないのだから、子どもは自らを、私たちがよく知っている人間の身体像と一致させることができない。あるのは「ここ」に行き交うバラバラに寸断された諸感覚だけだろう。ジャック・ラカンは「鏡像段階論」において、この「寸断された身体」を「整形外科的」に組み立て、「全体性の形態」のゲシュタルトへとまとめる鏡の作用を説明している(註4)。私たちが鏡の上に獲得する、四肢が有機的に統合された身体像は、安定した「自分自身」=〈わたし〉の形態であると同時に、よく似た「他人たち」の形態でもある。「ここ」から距離を隔てた鏡に映る幻影は、「わたしの精神的恒常性を象徴すると同時にそれがのちに自己疎外する運命をも予示」している(註5、傍点原文)。 私たちは鏡の作用を端緒とする疎外を経て、「〈わたし〉とは誰か」と問い、「〈わたし〉は誰某である」と位置づけ、自身に社会的な座標を与えていく。言い換えれば、私たちは成熟の過程で、「他人たち」のなかに、それ自身も「他人たち」の一人として自己を位置づけていく。私たちを原初の「リテラル」な直接性――文字通りの、それ以上でも以下でもない、つまり解釈され意味づけられる以前の「生な」感覚に満たされた、満足する肉の塊――から切り離し、自我としての〈わたし〉を設立するのが鏡(ミラー)の作用ならば、「ミラーレス・ミラー」とはどうやら、それを逆撫でする戦略であるらしい。 この文脈において、鏡への抵抗とは〈わたし〉を破壊することであり、「わたしの穴」をこの意味で理解することができそうだ。文字通りの「生肉」を使用した作品でも知られる藤井博の《石と人(石・石粉・人等)》(1972)は、人間をエレメンタルな物質へと還元するかのように、石粉にまみれる自らの身体を記録している。至近を流れ落ちる物質の滝は、パフォーマーの視覚を遮断し、「穴」の暗闇に「飲み込む」あの包摂をもたらすだろう。
4 自壊する鏡
この圧倒的な包摂は、主体に「位置」を与える客観的な座標系を排除するものだった。しかしながら、藤井の写真が最後に留めているのは、パフォーマーが立ち去った後の石粉に残された「足跡」、いわば「位置」の刻印そのものなのだ。それは、本作の標題をなす「石と人」という二項表現が端的に示しているように、粉塵の流入を受けてもなお、最後まで取り残された「人間」の痕跡である。しかしそれが「痕跡」としてしか指し示されていない以上、この人間は「死すべきもの」としてイメージに定着している。「記録」という営為が、死すべき存在にこそ向けられるという先の議論を踏まえるなら、ここでは人間こそが、それ自身を物質と等しくする「穴」へと方向づけられている。 「わたしの穴」という表現が引き受けているのは、こうした看過できない――至上の存在としては認められないにせよ、「死すべきもの」としては無視することもできない――人間存在の次元であるだろう。「穴」というネガは、それ自体だけによってではなく、それを縁取る充実部を介して認知されるはずだ。「障子の穴」が「破れた障子」でもあるように、「わたしの穴 My Hole」は「破れたわたし」のことでもある。穴を穿たれ、破壊された対象/主語としての〈わたし〉は、そのほかならぬ破壊という事実によって消滅しているはずであるにもかかわらず、「穴」の所有格(My)として亡霊のように残存している。 鏡(ミラー)は、既述の通り、〈わたし〉の別名でもあった。ゆえに「ミラーレス・ミラー」(鏡なき鏡)は、自らを破壊する鏡という自己否定的な形姿を示すだろう。〈わたし〉がそうなるように、鏡も亡霊となるのだとすれば、それは反映面を支える物理的な板を喪失した、「純粋な反映」とでも呼べる様相においてかもしれない。藤井の《石と人》において、〈わたし〉の消滅が石粉というリテラルな物質によって促されていたのと対照的に、消滅した鏡の亡霊は、むしろリテラルな支え(板)をこそ喪失している。 すでに見た通り、鏡は人を、原初的な「ここ」から〈わたし〉へと疎外するために、リテラルな支持体を透明化させるだろう。しかしその支持体は、消失したわけではなかった。それは身体と鏡像をたしかな距離で隔て、イメージを場に繋ぎ留めるために、むしろ要請されざるをえなかったはずだ(だからこそ、透明化もされねばならなかった)。だが「ミラーレス・ミラー」が展開する空間では、大川達也による同名の光学装置《ミラーレス・ミラー》(2017 / 2022)が示していたように、身体とその鏡像との距離は不分明なものになる。安定した距離の保証によって、私たちは鏡を通じて統合された〈わたし〉の全体像を看取することができていた。ならばこの距離の解消ないし撹乱こそ、本展がフォーカスする様態であるはずだ。
5 〈わたし〉のいる風景、〈わたし〉のいない風景
身体を「ここ」から「そこ」へと外化し、他人たちの社会のなかに〈わたし〉を位置づけること。それが鏡を端緒とする分離作用であった。この過程を通じてこそ、〈わたし〉は他の人々と自己を比較し、「自分らしさ」を見出し、またこのアイデンティティの承認を欲することになる。「いいね」の数を欲求するソーシャルメディアの競争空間は、それを裏づける実例だろう。たとえば、ウェブ小説の創作においては、閲覧サイト上で検索できるランキング上位の人気作品、あるいは運営プラットフォームがあらかじめ提供する物語ジャンルやキーワード(「異世界転生」など)を頼りに、読者の欲望を先取りした作品を投稿することが可能となる。他者(ここでは読者)からの評価を想定、期待しつつ、表象行為が営まれるというわけだ。 谷口暁彦の《Parallax》(2021)は、写真イメージの制作・流通におけるこうした先取りを扱ったものとして理解できるだろう。VR空間の出発地点ともいえる殺風景な室内には、複数の検索ワードが浮遊している。このゲーム的な画面に実装された一人称視点である、スマートフォンのカメラを持つ手が、これらのワードや、続いて展開していく風景の手前にかざされている。検索者の関心に紐づけられる検索ワード/検索画像が象徴するように、今日、撮影機能(カメラ)と投稿機能(ソーシャルメディアのアプリケーション)が同梱されたスマートフォンで写真を撮る行為は、以前にも増して欲望のネットワークに過剰接続されているだろう。他者の欲望に応えることで自己の欲望を満たそうと奮闘する〈わたし〉の、たゆみない努力がそこにある。 撮影者たちは、誰が欲しているのか――自分の意志に動機づけられて撮っているのか、他人の欲望への応答として撮っているのか――に関する決定的な手がかりを掴めないまま、風景にカメラを向ける。象徴的なことに、《Parallax》の空間における主観=撮影者である、オレンジ色の服を着用した谷口自身のアバターが、カメラが捉える風景の中にも繰り返し登場し、被写体となる。それはまるで、撮影の主体と客体が同化したかのような様相を呈している。こちらとあちら、インカメラとアウトカメラ――自撮りをしているのか、目前の風景を撮っているのか――の識別が困難となる。言ってみれば、自己と風景の同化である。 ロジェ・カイヨワは、環境に同化する昆虫の擬態を考察しながら、こうした擬態、すなわち生物と環境との区別の解消を「空間への同化による人格喪失」に結びつけている(註6)。カイヨワによれば、こうした症状において「身体はそれ自身が空間になったように、物を置くことのできない暗黒空間になったように感じる。身体は似ている。何かに似ているのでなく、ただ単に似ている」(註7、傍点原文)。 自らが空間となった身体、つまり類似の対象を「対象」として特定化することができず、環境との同化をいわば「純粋な類似」(「ただ単に似ている」)として経験するほかない身体が、「暗黒空間」と定義されていることは示唆的である。それは第一に、自己と風景、撮影者と被写体を同化させる谷口の手続きを、擬態的なものとして指し示すことになるだろう。第二に、その「純粋な類似」は、リテラルな本体を喪失した鏡の「純粋な反映」、すなわち対象との距離が消失した「ミラーレス・ミラー」の経験と重なるはずだ。したがって、第三に、「ミラーレス・ミラー」の経験を、「暗黒空間」にほかならない「穴」の経験の隠喩として読むことが許されるだろう。 アバターやアカウントを通じて〈わたし〉という個をアピールし、社会的な承認への糸口を与えるソーシャルメディアが、同時にその過剰接続によって、自他の脱分化という「暗黒」の脅威に主体を曝す。終わりの見えない投稿に勤しむ者は誰でも、虚無への転落と隣接している――「私は一体、これを誰のために、何のためにやってきたのだろう?」と、人は不意に打ちのめされることだろう。個を曝露した果てに、そのほかならぬ〈わたし〉が、逆説的にも「自分自身」の所有物として引き受けられなくなってしまう瞬間、人は「穴」に飲み込まれる。この「飲み込まれ」はたとえるなら、複数の鏡が過剰接続し、万華鏡のように自己像を乱反射する状況と言えるかもしれない。自我を設立するはずの鏡がむしろ、安定した〈わたし〉の像を引き裂いていく。 こうした分裂は、津田道子の《借景トリローグ:振り返る》(2020 / 2022)が観者に強いる経験でもある。吊り下げられた矩形のプレートは、片面が鏡、もう片面はスクリーンとなっている。鏡面側の後方には、プレートと真向かいにカメラが設置されている。このカメラが撮影した映像はプロジェクターへ転送され、鏡の裏側、すなわちスクリーンに投影される。この構造のために、鏡の前に立つ観者のイメージは、一方で鏡像へ、他方で映像へと分割されることとなる。観者は、一度に両面を見られないために、分割された自己像をまとめて引き取ることはできない。さらに、プレートとカメラの間には長い距離が開いているため、観者の身体イメージの大きさは、鏡像と映像の間で反比例することになる(鏡に近づいて大きく映っているとき、カメラが捉えているのは遠くにある小さな像であり、逆もまた同様となる)。 身体とそのイメージの非同期は、こうした空間的条件に加え、時間的条件を通じてももたらされる。というのも、スクリーンに投影される映像は、リアルタイムの中継ではなく、遅れを伴って出力されているからだ。視線の届かない裏面へと移送された自己の半身に思いを馳せる、鏡の前の観者は、実際にはそこにいないものを取り戻そうとしているのだ。統合された〈わたし〉は、それをふたたび束ねようとする掌から、どうしようもなくこぼれ落ちていく。
6 美術の穴
本稿では、「地底人とミラーレス・ミラー」が展開した「穴」の思考をめぐって、いくつかの作品を参照しながら、〈わたし〉という自我を撹乱するその戦略を看取してきた。ところで、自我とは私にとっての〈わたし〉であり、他人――たとえば目の前の「あなた」――にとっての〈わたし〉は他我と呼ばれる。「私らしさ」「あなたらしさ」はそれぞれ、自我と他我におけるアイデンティティの規範である点では変わりがない。つまり〈わたし〉とは、「〜らしさ」という規範に主体を閉じ込めてしまう閉域でもあるのだ。 「個性的な作品」という価値概念は実のところ、ポスト・フォーディズム的な多品種少量生産における「個性」の消費と容易に結びつくだろう。Tシャツのバリエーションやポケモントレーナーの欲望が体現しているように、「自分のカラー」なり「色違い」を所有することは、「私らしく」あること、この世界のプレイヤーとして固有でありえている感覚を導くはずだ。だが「いいね」の数を自己の存在意義と見なすのと同じように、多くの場合こうした「らしさ」とは、その「らしさ」の価値をあらかじめ準備、承認する「他人たち」の共同体への従順な応答でしかない。「私らしさ」や「個性」なるものは、すでに疎外された表象なのだ。 なるほど、上に挙げた作品群も、それぞれに独自の特性を備えている。しかしそれは、作者という〈わたし〉の自画像をナルシスティックに反映する、鏡のような閉域を構成しているという意味においてではない。これらの作品の強度はむしろ、〈わたし〉という個の基盤を掘り崩す射程にこそある。よく知っている〈わたし〉を補強するのでも、別の〈わたし〉にすり替えるのでもなく、そもそも〈わたし〉という閉域のうちに消化しきれない何かを取り込み、それに取り込まれること。「美術」という分野においてこそ、「個性」なるものが無自覚に正当化されてきたとすれば、「個性」の神話が失調した光景すなわち「わたしの穴」は、そのかぎりで「美術の穴」でもあるのではないだろうか。 「私は美術をやっています」。たとえばこのように発話するとき、その「私」が「美術をやっている」時制は「今」であることが含意されているだろう。こうした〈わたし〉と〈いま〉の結託は、「現代美術」なるものをまたしても、一過的な現在性の消費に晒すことになるだろうか。だとすれば、同時代の美術を、50年あまりを遡る「裂傷」から検証するプロジェクトは、そうした現在性への抵抗でもあるはずだ。過去を現在とは無関係の、すでに「死んだもの」としてではなく、私たちの現在にまで生き延びるべく「仮死状態」で待機するものとして――歴史主義的な適用には警戒しつつも――参照すること。「穴」に耳を傾け、その呼び声を聴取する。〈わたし〉が〈わたし〉でなくなる。
註
(註1)ボリス・グロイス「多重的な作者」『アート・パワー』石田圭子・齋木克裕ほか訳、現代企画室、2017年、162-163頁。 (註2)同上、159頁。 (註3)次を参照。石井友人「わたしの穴 21世紀の瘡蓋」『わたしの穴 21世紀の瘡蓋 藤井博』、「わたしの穴 美術の穴」製作チーム、2019年。高石晃「日本現代美術のクラストコア」、同書。 (註4)ジャック・ラカン「〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ Ⅰ』宮本忠雄・竹内迪也ほか訳、弘文堂、1972年、129頁。 (註5)同上、127頁。 (註6)ロジェ・カイヨワ『神話と人間』久米博訳、せりか書房、1994年、116頁。 (註7)同上、117頁。