review

On and around:「穴」をめぐって

四方幸子

「わたしの穴 美術の穴」という、謎めいた名前のアート・プロジェクトによる「地底人」(パート1)、「ミラーレス・ミラー」(パート2)。「穴」をめぐって掘り下げた高石晃、石井友人キュレーションの二つの展覧会に触発され、いささか自由に展開した「批評-エッセイ」である。


 I. 「穴」とは?

高石晃、石井友人の「わたしの穴 美術の穴」は2014年に活動を開始、1970年に高山登が住むアパートの敷地で榎倉康二、高山、藤井博らによって行われた野外展示「SPACE TOTSUKA 70(木.壁.草.土.家.石.空.地.火.空気.水…)」を美術そして社会の転換点と見なし、とりわけ藤井らが大地に掘った「穴」を検証し現在に再接続する試みを行ってきた(高山らは、1970年代前後に展開された「もの派」の動きと関わりつつも、独自の試行を重ねてきた)。本企画は、彼らの数年の活動の到達点であり新たな挑戦といえる。 作家名と同様に、「地底人」と「ミラーレス・ミラー」でも「穴」が通奏低音となっている。 ならば穴とは何か。振り返ってみれば、物理的、機能的、概念的など世界にはいたるところに穴がある。しかもほとんどは見えにくい。いやそれこそが穴が穴たる所以であり、何かの構造が前提とされてようやく穴は可視化される。穴とは窪みや奥行きのある空間もしくは管やトンネルであり、空(くう)や空虚、もしくは何らかの滞留場であり、別世界もしくは別世界へのインターフェイスとしてある。穴を様々なものや解釈を許容する可能性の場として提示することは、世界の中で抑圧されているものを掬い上げる試みであるだろう。それは同時に、無意識的に稼働している様々な力を可視化することでもある。 高石、石井はそれぞれ「穴」を、下へ貫入するもの(垂直性)と横方向に交通していくもの(水平性)として捉えている。前者は進むほど暗黒で不確かとなり、現実世界から遠ざかっていく。後者は異なる複数の穴をめぐりつづけるプロセスによって世界を複層的なものとして浮上させるだろう。 前者の穴は、即物的な地下や地中の世界を示すとともに、無意識や過去に追放された事物や歴史へと遡行する。それはまた異界——死者や霊的・神秘的な世界——へとつながっていく。後者は、眼球やカメラなどイメージを受像する穴状の空間として想定されたというが、加えて映像が反射し連鎖していくプロセスも含むだろう。両者は、闇と光、奥行きと反射の連続体として対比的に捉えられる。しかしそのような対比をよそに、ものとしての素材や深層へと斬り込むプロセスにおいて、実はただならぬ関係性を持つことが明らかになるのではないか。

II. 地底人:地下に入り、戻ること

絵の具や支持体の物理的な歪みや切断などによって、絵画を絵画たらしめている極限を侵犯し内破するかのような表現を展開する高石晃は、「わたしの穴 美術の穴」では寡黙に大地に穴を掘りつづけてきた。絵画であれ大地であれ、表層から深部を掘り下げるフィジカルで求心的な探求が高石の持ち味といえるだろう。 穴については「SPACE TOTSUKA '70」での榎倉康二の《湿質》(1970)、藤井博の《波動B》(1970)、そして高山登《ドラマ地下動物園2》(1970)が念頭にあるのはいうまでもないが、村上春樹の『1973年のピンボール』(1980)も参照項にあるという。奇しくも主人公が空き地に穴を掘るシーンがあり、それも1970年の冬、つまり「SPACE TOTSUKA '70」と同時期の設定であることが決め手となった。 高石の穴を、これまで二度見たことがある。矩形の穴、内部に階段の形状が造られたL字型の穴はいずれも生々しく、地層にはその土地が辿ってきた自然や歴史の痕跡が確認できる。高石にとって、大地は私たちの生、身体そして世界の基盤かつ根源である。でありながら意識下に追いやられ、人間により領土化されてしまっている。高石は地表から地中へと切り込むことで、見えないものや隠されたもの、忘れ去られたものを召喚しようとする。穴は裂開であり傷である。痛みとともに過去の記憶を表出させることで、穴は生きている者に省察を促し、ひいては過去そして人間を癒しうる契機となるだろう。 ギャラリーは地下にあり、階段を降りる。空間に入ると、漆黒の枕木による構造物が存在感を放っている。高山登の《地下動物園》(1968/2022)である。枕木には、かつて日本が植民地において敷設した鉄道や炭鉱労働の意味が込められているという。そこからアウシュヴィッツを含む20世紀の負の歴史(鉄道で運ばれた多くの人々が虐殺され地下に埋められた)へと沈思が深まっていく。 東浩紀は、「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」(『ゲンロン10』、2019)において「20世紀前半の大量死のうえに、大量生の繁栄を築きあげた」*1と述べているが、ここ100年において起きた「大量死」「大量生」には、枕木も動物園(見るための近代装置)も含まれる。下降し上がる階段状の構造物は(高石も同様の形状を取り入れている)、埋もれた過去、地下や無意識の世界に下降し戻り、また入っていく無限の循環を誘導するかのようである。 東は同原稿において、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』(1994–95)での「井戸に潜ること」に言及しつつ、「加害を忘却するのでも、また被害者の物語に身を委ねるのでもない、加害そのものの愚かさを記憶しつづけることができるのではないか」2と記している。筆者には、高山と高石がつながるくだりのように思われる。 《地下動物園》の向こうにある高石作品では、ギャラリーの床が正方形に開口し、通常見ることのない不可視の位相つまり地下空間が露呈(!)している。覗き込めば傾斜した地形が広がり、まさに異世界である。ホワイトキューブの隙間から、人間が表層的に支配する世界のすぐ下に広がる自然と遭遇した時の驚き。フラットな街並みが起伏のある地盤上に構築されていたことを知り、都市が人間以前の様相を帯びて浮上し始める。 高石は地下に入り込み、そこの土を一つは高く、一つは低めに盛り上げ造形しそのまま置いている。前者の上部はくっきりと矩形を呈し、後者のそれはのっぺりとした平面で、その中央に丸い穴が空いている(床に開いた穴の中にある穴……)。地下空間や造形物の詳細は、カメラ越しに床上のディスプレイで中継されている。床の蓋はもともとあったというが、高石がそれを開け放ち、ギャラリーと地下世界とを接続したことは特筆に値する。高石の作品では、地下への下降と上昇に加え、穴の中の穴という入れ子構造が、観るものを無限の運動へと誘っていく。 高山作品の物質的深度とそこから誘導される想像的地下空間から、高石による実際の地下空間との接続を経て、ニコライ・スミノフによる《死、不死、そして地下世界の力》(2019)、そして《ソノポリティックス(地下政治学)》(2022)へと到る。《死、不死、そして地下世界の力》は2019年のウラル・インダストリアル・ビエンナーレでの展示を再構成したもので、床上の複数のディスプレイでは、ロシア・サハ共和国の永久凍土上の都市ヤクーツクでの地下深くの永遠の博物館構想(1920年代)を基点に、凍った地下空間での絵画展の風景や地球温暖化の影響で冷凍状態で発掘された古代仔ウマ3などの映像が上映されている。仔ウマやマンモスからは血液が採取され、日本でもクローン化の研究が進められているという。 20世紀前後のロシアでは「宇宙主義」が流行、不老不死や宇宙進出を提唱したツィオルコフスキー(ロケット工学の先駆者)など、科学・技術で自然を制御しようとする極端なユートピア思想も含まれていた。1920年代には、民族主義的なユーラシア主義が台頭した。これらはいずれも非西欧的なアイデンティティを基盤としている。高石によればスミノフは前者のような神秘的ユートピア思想を現代における「テクノアニミズム」と同様に現状に対するオルタナティブとして評価しているという。そしてスミノフは後者が現代に反動的な形で回帰してきたものとして、プーチンに代表される「新ユーラシア主義」を批判している。彼は、人為的に国境が変わり資源搾取や汚染が止まない「地下世界」をアニミズムや神秘主義へと引き戻すだけでなく、人間以前の始原へ向かわせることで救済しようとする。筆者は神秘的ユートピア思想にも「テクノアニミズム」にも距離を置いているが、スミノフの地下への/からのまなざしには共感を覚える。 ギャラリーの壁面全体には、呪文のようにスミノフの《ソノポリティックス》のテキストがロシア語で表示されている。床のディスプレイの手前には、石が数個置かれており、よく見ると表面に穴や迷路、人間の頭部のような線刻画が施されている。高石がさりげなくスミノフの作品エリアに差し込んだものである。線刻画が日本海をはさんでロシア極東部や北海道(余市や小樽)の洞窟で発見されている事実から、ロシアと日本を関係づけたのだろう。 「地底人」では、存在しないとされていたもの、忘却されていたものが観る側に突きつけられる。それはまた同時に、「誰が見ているのか」という疑問を湧き起こす。実は穴の向こう側や地下から、人間以外の存在が私たちを見ているのではないのかと……。しかし実は、そこには私たちも含まれる。本展では訪れた者それぞれが「地底人」となり、地下から世界を見返すことになる。 暗黒の地下世界においてはまた、「観る」という行為やシステム自体が宙吊りにされ、ひいては「誰のための展覧会なのか」「観者とは誰か」……と問いが問いを生み出していく。そしてそれこそが、「穴」が可能性の場として立ち上がる瞬間なのではないか。 地下世界に潜った後、ギャラリーの反対側へと向かう。そこには明るい空間に高石の小さな絵画《Inner Surface (Stairway)》 (2021)がある。えもいえない歪みや皺、肌理を持つぬめりとした印象の表面には、タイトル通り階段のようなものが見える。そしてその前にある天井にまで至る既存の書架には梯子が設置されている。観る側は、見上げることで想像的に地上もしくは天空へと誘われていくだろう。そうして(胎内めぐりのように)地下の暗黒を経めぐった後、階段を登り、地上界と戻っていく。

III. 地球深部からの呼びかけ

地下といえば、長野県の諏訪には日本では唯一といわれる地下伝説がある。甲賀三郎が、姿を消した姫を探して蓼科山の大穴から「地下の国」をめぐりしばし幸福な日々を送るが、ある日地上が恋しくなり、ようやく戻ったものの、池の水面に映った自身を見ると蛇と化していたという。この話を通奏低音に制作された映画『ものがたりをめぐる物語』(吉井英、2022)では、諏訪での撮影を中心に、東日本大震災の被災地である陸前高田などの映像とともに日本の風土についての言葉が散りばめられている。大地、土地、地下世界、そして開発や復興のための採土による風景の変化……映画では、近代化の弊害や直面する環境破壊に対して、自然や風土にあらためて向き合うことが提起されている。 地下世界は、人間に貯蔵や保管、隠蔽、埋葬などの目的で使用されてきた。そこには不要なものや忘れたいもの、死体などが埋められてきた。人間は同時に地中から、作物や資源、遺物や遺跡などを掘り出してきた。地層は地球の歴史を物語るアーカイブである。過去の地殻や気候の変動の痕跡であり、動植物の成分や化石が層となったリソースでもある。21世紀初頭に地質学から発された「人新世」という地質年代が社会に広がり数年経つが、高石や石井の「穴」をめぐるまなざしは、時代の動きをいち早く自身で感知したものだろう。 2011年3月11日の東日本大震災とともに起きた東京電力福島第一原子力発電所の事故は、事後処理や長期にわたる放射性廃棄物や汚染水処理の問題を抱え、現在も収束していない。それどころかすべての放射線が消滅するには10万年という気の遠くなる時間を要するという。汚染は国境を超え、地球規模で拡散していく。そこには人間を超えたまなざし——非人間としての動植物やものからの——が必要とされてくる。 「SPACE TOTSUKA '70」は、急速なグローバル化や高度経済成長の時代(原発が稼働し始めた時代でもある)において、社会や美術への危機感から直観的に大地という根源へと向かう極限的実践であった。約半世紀後、気候変動やデジタル化、そして福島原発事故後の時代において「わたしの穴 美術の穴」は、地下を異界であると同時に土や土壌、そして微生物などミクロな存在へのまなざしからも捉えているように思われる。 2020年全世界を席巻した新型コロナウイルス感染症は、環境破壊が要因とされ、土や土壌が密接に関わっている。その上2022年には、世界史を大きく変える衝撃的な事件が起きた。「地底人」が終了した12日後(2月24日)に勃発したウクライナ戦争である。モスクワに住むスミノフは、事態を憂慮しステートメントを発表、「想像力と同じように地下世界の力は諸刃の剣であり」に始まり、反戦や反帝国主義的な想像力としての地下世界の深淵を召喚し、戦争を中止するように呼びかけた。それを受けた高石が、自らの言葉とともに3月29日にステートメントを公開している。 高石は、展示「地底人」が「国家的暴力に抑圧されたものの立場に立つことをあらためて確認し、戦争反対を表明」するとし、スミノフの描く地下世界が植民地主義的暴力に抵抗するものだと述べている。高石はまた、展示で壁にロシア語で展開されていた《ソノポリティックス》の写真をスミノフの承諾のもと加工し、「戦争反対」というメッセージにして発信した。 豊かな土壌と石炭資源に恵まれたウクライナは、ロシアが重視してきた地域である。これまで多くの戦争がエネルギーや資源をめぐって起きてきたが、ここも例外ではない。人類は、土地の争奪や国境をめぐる攻防を繰り返してきた。穴の中へ、地中の奥深くへ分け入ることは、人間界から遠ざかり、根や微生物や骨などそこここに埋まり堆積しているもの、死んだものから世界を見直すことに他ならない。「地底人」は、人類史を超えた悠久の地球深部(穴)から、私たちに呼びかけつづけている。

IV. ミラーレス・ミラー:多重反射する作品と知覚

「ミラーレス・ミラー」では、展示に入る前からただごとではない。地下に降りても入れない。チェーンが渡されガラスの扉で遮断された向こうには、おびただしい斧入れでえぐられた作品(多田圭祐《Heaven’s Door #4》(2022))が見えるものの4、それに背を向け地上に戻り、ビル裏側の通用口から下ることを余儀なくされる。すでに観る者は、心身ともども別モードに入ってしまう。 会場ではまず、鏡、カメラ、プロジェクションが異なる時間や空間を入れ子的につなぐ津田道子の《借景トリローグ:振り返る》(2020/2022)に迷い込む。次に遭遇する藤井博作品は、正面の壁の写真《石と人(石・石粉・人等)》(1972/2022)(石を砕いた粉を頭上から浴びている、つまり石の内部に入り込んでいるパフォーマンスの記録写真)、そして立ちはだかる大ガラス(反射する透過体)には、表面の砂を削った木材が生々しい痕跡とともに立てかけられている(《内へ・外へ》(1978/2022))。後者は、向こうの空間を物理的に遮断しながら(ノイズ的に付着する砂とともに)透過と反映するインターフェイスとして観る者を圧倒する。ガラスの向こうには、壁面プロジェクションやディスプレイの映像を中心に絵画や平面作品が見える。「地底人」とはまったく異なる導入と空気の空間には、石井を含む9人の作品が周到な位置関係で展示されている。やがてその上で、各作品に内包された多層性や入れ子構造が、多様な「ミラー」的体験を派生させていくだろう。 藤井作品を一種の結界として、「ミラー」を「穴」と見立てガラスや鏡などの反射体に加えてディスプレイそしてヴァーチャル空間へと派生する世界へと入っていく。最も手前には、谷口暁彦の《骰子一擲》(2018)と《Parallax》(2021)が右と左に置かれている。マラルメの詩「骰子一擲」(1897)を参照した前者は、サイコロが落ちた風景の3Dモデルの物理的出力(サイコロを含む文具や石)と映像内でのシミュレーション(投擲されたサイコロにどこかの風景が重ねられる)によって、過去と現在、未来を接続しようとする。後者では、来場者がヴァーチャルなiPhoneで撮影することで、実空間との視差(Parallax)や世界のメタ的構造を体験するだろう。 続く左右の壁面には、三宅砂織の《Garden (Potsdam)》(2019)、《Garden (Wadakura)》(2022)がプロジェクションされている。 どちらも公園の噴水を撮影した映像を◆白黒◆ネガポジ◆反転したものだが、前者は三宅の関係する人物が体操の選手として1936年のベルリンオリンピックに出場した際に撮影したポツダムの噴水の写真(重力に抗う人間の技術を象徴)を参照元としており、後者は東京オリンピックが開催された2021年に撮影された皇居外苑の和田倉濠近くの噴水である。その二つが向き合うことで、公私に関わる日独の歴史から省察が喚起される。壁面に谷口と三宅の映像が並ぶ展示は、カラー/モノクロ、ヴァーチャル/写真ネガ、そして時代的な対比とともに、社会的抑圧の変容(国家的なものから日常的無意識へ)を呼び起こす。そこから振り返ると、谷口の3Dプリンタ出力の石と藤井作品の石が呼応するかのようである。 奥に向かうと敷地理の《burning dots spring remix 2022》(2022)がある。吊られたディスプレイの映像(三種)に加えてiPhone上の写真アプリを介して近年流行ったASMR5 的体験をすることが意図されている。敷地はまた境祐梨と共同で、日常の身体感覚がウクライナの状況へと重なっていくことを念頭にしたパフォーマンス《blooming dots for Ukraine + 31 eyescream》を会期中に開催した*6。 敷地のディスプレイ越しには石井の絵画《Sub Anaglyph (pachira)》(2022)があるが、円や穴などのモチーフの何ともいえない触感や艶かしさで両者が共振して見える。 石井の作品は、通常のギャラリー入口にある受付カウンターの壁に設置されている。生麻、モデリングペースト、油やアクリル絵の具、UVプリントを素材にした、壺などを想起させる赤、青による抽象的な形象を持つ。複層的なイメージは、観葉植物をビル内外から撮影することでガラスの反射と透過を取り入れたものだという。突端が光と地中へ向かいながらも人の管理下にある観葉植物、石井の身体の動きによる画像とUVプリントが交錯する奇妙な質感や立体感の中、中央にある穴のような形象が別次元へ誘うかのようである。 そこから左の壁面に、外からチェーン越しに対面した多田の《Heaven’s Door #4》がある。ドア表面のおびただしい痕跡が、作家が振り下ろした斧のバイオレンスによることを観る側は知っている。と同時にそれは、ドアから恩寵の光が放出されるようにも見える。ドア内(もしくはドアの向こう)に閉じ込めた光を得る(外在化させる)には、表層を壊しえぐるしかなかったかのように。 実物のドアを型取り絵の具を流して作られた似非(エセ)のドア、としての支持体もしくは物体。絵筆の代わりの斧。絵画にも彫刻にも収まらない力の痕跡、そして「光」の放出の生々しさ。メディアは異なるものの、表層の自明性に介入するダイナミズムにおいて、多田と藤井の作品が接続される。 展示空間の最奥部にあるのが、本展のタイトルともなった大川達也の《ミラーレス・ミラー》(2017/2022)である。近づくと、観る側の姿が漆黒の闇の表面に反射する、でありながらミラーは非物質で内部に手が突き抜ける。反射しながら通過してしまう体験は、観る者の意識を一瞬宙吊りにしてしまう。その上で世界や知覚の自明性が問われ始めることだろう。 本展ではもう一作品、雨宮庸介《壁のなかの手鏡》(2022)が出展されている。タイトル通り、壁の中にある本作は、実際には壁面の基底部が手鏡状に凸形に彫り込まれ、そこに鏡がはめ込まれている(つまり壁の一部と化している)。手鏡は、存在しながらも見ることができない背反的な状況にある。つまり作品は「存在する」と信じそれを想像することで存在し、闇の中に封印され「潜在する鏡の反射を秘めている」(石井)ことによって高石の「地下空間」へと接続されている。 石井は、映像で溢れる日常と身体との関係を思索する中で「自他の境のない、人間の非-人間領域=〈享楽〉」を、映像が多重に織り込まれた絵画としてきた。そうしてここにおいて、それぞれ孤高の存在である石井と大川、雨宮の作品相互が呼応し始める(ように思われる)。 「ミラーレス・ミラー」では、通常統合的な知覚や感覚が自明のものではなく、横滑りしつづける。ガラス、ディスプレイ、プロジェクション、絵画、平面、反射する暗黒や封印された反射……いずれもその物質性や表示されるコンテンツ、もしくはヴォイド的な様態において複数のフレームや世界を宿し、相互に反射し時に軋みながら、派生が派生を連鎖させていく。しかしそれはシミュラークルの連鎖ではなく、あくまで「もの」そして概念的な「穴」が起点となっている。本展では、視覚のミラーリングを扱いながら、視覚の整合性から逸脱しつづけるプロセスの中で、それ以外の感覚がむしろ喚起され膨れ上がっていく。 そのような中、ふと思う。石井の絵画がそれが面している会場全体(大川と雨宮作品以外)を俯瞰し、同時に空間の可視/不可視的な映像や反映を吸収しつつ多重反射する作品や知覚をメタ的に表象しているのではないか。実は石井の絵画に、「ミラーレス・ミラー」の展示が概念的に織り込まれているのではと。

V. デジタルへと延長されるミラー、そして土

「ミラー」といえば、板ガラスの背後に銀が塗られた鏡が一般的には連想される。しかしこのような歪みの少ない鏡が発明され普及したのは19世紀前半以降(西欧近代)であり、それまではガラス、またそれ以前は銅鏡など金属素材が顔や姿を映すために使われていた。遡れば黒曜石などの石、人類が最も古くから鏡として使ってきたのは水面であることはナルシスの神話の通りである。近代以前は、鏡の使用頻度も使用する人々もかなり限られていた。つまり近代において鏡が流通すると同時に、自己像の把握とともに「反映」や「省察」という概念が浸透し始めたといえる(自画像が増加する時期とも同期する)。 1851年の第一回万国博覧会(ロンドン)ではガラスと鉄骨による水晶宮が登場したが、透過と反射が織りなす建築は、当時の科学・技術の粋を集めたものだった。ガラスは硬く固定的な感触だが、実は分子構造的には液体に属する。「分子が規則正しく並んだ構造をとる結晶」が固体であり、内部にランダムに分子がつまったガラスは「動きが凍結した液体」だという7。人間の知覚では「固体」と認知されながらも、分子レベルでは「液体」であるガラス。同じ対象であっても観察主体やスケール、分析方法に応じて異なるものとして認識され位置づけられる。 一つの視点からは矛盾に見える、しかし複数の視点を前提とすれば矛盾ではない。むしろ異なる視点の集合体としてこそ、ものや現象はあるのだろう。「矛盾」を感じる前提としての世界観や世界把握の方法自体が、今まさに問い直されている。ガラスというものの特異性は、想像的に「ミラーレス・ミラー」——展覧会タイトルそして大川作品——そのものの特異性と接続しうるのではないか。 鏡に戻れば、その普及は銀塩写真が発明された時代と重なっている。写真において人々は、ガラス乾板に定着された像として世界や自身と事後的に出会えるようになった。19世紀末に登場した映画は、フィルムに連続的に焼き付けた画像をリールで回し投影することで時間軸を導入した(この技術と鉄道技術はシンクロする。また映像装置という側面から通じている)。1960年代以降にはビデオカメラによるリアルタイム・フィードバックという新たな鏡像作用が生み出されていく(その現象学的側面に注目したダン・グレアムは、70年代にかけて数々の実験的作品を発表、後にはハーフミラーを使った作品を屋内外で手がけている)。 デジタル技術が普及した現在では、「ミラー」もしくはミラー的な効果は新たな展開を遂げている。パソコン上の「ミラーリング」、カメラの「ミラーレス」を始め、スマホを手鏡の代用としたり、メタバース空間のアバターや「デジタル・ツイン」など、「ミラー」という概念はますます複層的なものへと拡張している。ここでの「穴」は形状やシステムとしてだけでなく、実空間やヴァーチャル空間を行き来するインターフェイスと捉えることができるだろう。 ふたたび穴、そして地下世界を回遊しながら「ミラーレス・ミラー」へと至ってみたい。まず、あらためて意識にも上りにくいが、私たちの世界を構成するほとんどのものは、自分たちの身体も含め土に由来している8。本展のテーマとして重要である反射素材や映像機器も同様である。ガラスは、シリカを主成分とする珪砂にソーダと石灰を加えたもので、ディスプレイ、プロジェクター、iPhoneなどの機器、3DやUVプリント素材、またそれらの製作過程で使用される機器も地中からの資源でできている(木や石などは、より直接的に土や地中由来である)。 デジタルを含め、展示や製作過程における様々な反射や反映、転写を起こす素材や機器が地中に由来することは、「地底人」と「ミラーレス・ミラー」を原料と製品、起源と派生、搾取と享受という関係において結びつける。前者から後者への変容を推進したのが近代の科学・技術である。高石と石井は、土や大地を素材や対象として近代が可能にした技術的展開を活用しながら、そこに近代からはみ出てしまうものや現象(反映、虚像、多重反射……いわばハイブリッド的な「亡霊」……?)を過去、そして現在から召喚する。 さらに「地底人」と「ミラーレス・ミラー」から、唐突ではあるものの、筆者は長野県の諏訪湖を想起する。諏訪湖の下では、南北にまたがるフォッサマグナの糸魚川-静岡構造線と、東西にまたがる中央構造線という大断層が交差している。むしろ諏訪湖は、これら断層のせめぎ合いにより誕生したという。いわば地中深くに渡る十字状の亀裂であり、「穴」である。 穏やかな水面は周囲の風景を映す「鏡」のような様相だが、冬場には結氷し(固体化)、毎年ではないものの氷がせり上がり、うねりながら湖上を線状に走る「御神渡り」と呼ばれる自然現象が起きる。その形状はあたかも蛇のようである*9。御神渡りの氷の形が、湖深部の断層と関係があるかは不明だが、特殊な地勢や水流、そして気候が生み出す、極めて特異な現象であることは確かである。

VI. シュルレアリスムの新たな実践

ルイス・キャロルは19世紀半ばにカメラをいち早く入手し、少女の撮影に入れ込んでいた。カメラはカメラ・オブスクーラ(ピンホールが外界を反転させ内部に像を結ぶ箱)の発展形であり、カメラ・オブスクーラはルネサンスの遠近法に由来する。X、Y軸を基盤に空間を静的に定着させるのがカメラだが、まさしく近代的システムの産物といえるだろう。 同時代には、ゾートロープやパノラマなど、写真や絵画を元に視覚的イリュージョンを誘発する娯楽装置が発達したが、各人の知覚に働きかけることで近代を超えるものを志向していたとも解釈できる。その後映画が登場し、集団的な没入的娯楽装置として20世紀に浸透する。現在はそれがVRやAR、プロジェクションマッピングそしてヴァーチャル空間へと延長されている。 近代を表象するカメラという装置はもとより、上述の視覚装置はしかし、システムによる知覚の支配やコンテンツの意味への従属を前提としており、その意味で近代に束縛されている。 「地底人」と「ミラーレス・ミラー」はいずれも、そのような知覚の支配から逸脱し、地中の暗闇や無意識(底がわからない)や反射し透過しヴァーチャルも含めた迷路のような連鎖(終わりのない)の只中へと誘う試みである。 さらに「地底人」と「ミラーレス・ミラー」は、キャロルが執筆した二つのアリスの物語——『不思議の国のアリス』(1865)と『鏡の国のアリス(Through the Looking-Glass, and What Alice Found There)』(1871)——を意味するようにさえ見える(前者が「地底人」の穴、後者が「ミラーレス・ミラー」的世界)。『不思議の国』の冒頭では、懐中時計を持った3月ウサギが急いで穴の中(不思議の国)に駆け込んで行く。穴の向こうの「不思議の国」は、カメラ・オブスクーラのような反転はなく、言葉や論理の横滑りが頻発するナンセンスかつシュールな世界で、時間や空間スケールが変化しつづける。 数学者であったキャロルは、産業革命とともに社会の規律化が進んだ時代において、カメラの穴、不思議の国の穴や鏡の世界を通して近代から逸脱する世界に生きていた。それははからずもシュルレアリスムに通底しているように思われる。実験的な視覚詩も残しており、キャロルを様々なメディアを駆使したシュルレアリストの先達の一人と見なすことができるのではないか。 カメラ・オブスクーラが近代的な装置であるなら、近代を超えていく装置と筆者が考えるのがプロジェクターである。いずれも箱状の装置だが、穴を通った光が外部の風景を内部に映す前者 と反対に、プロジェクターは内部から光を外へと放つ。17世紀のマジック・ランタンや19世紀の映写機も含め、整合的な像を結ぶための装置だが、プロジェクターは空間に投影されるため、光源との間に人やものが入り込むことで像が乱れうる、つまり空間内で動的な現象を形成する。モホリ゠ナジの《光-空間調節器》(1922)はその先験的な試みといえるが、重要なのは、プロジェクト(光の放出に加え、概念や方法としての「投企」)することであるだろう。それは、異なる不均質かつ動的な空間や社会に向けての問いの投げかけであり、受け取る各自がそれを受け止め応答する(response)/応答可能性・責任(responsibility)を引き受けることでもある。アートはそのような投げかけの連続であり、予定調和的な像や唯一の答えの不可能性こそが可能性となる。 1970年前後において、「地底人」と「ミラーレス・ミラー」、そして無意識やシュルレアリスムと共振するものに、SF映画として公開された『2001年宇宙の旅』(S・キューブリック、1968)に登場する「モノリス」そして『惑星ソラリス』(A・タルコフスキー、1972)での「ソラリスの海」がある。前者は米国、後者はソ連映画で異なる体制に根ざしながら、宇宙や世界観においてはつながっている。科学や技術を発達させた人間という存在を問い、また人間の起源としての宇宙の謎もしくは無意識的なものとコミュニケーションをする姿勢である。それは「SPACE TOTSUKA '70」とほぼ同時期であり、「人新世」の大加速時代とも重なっている。 直線的な立方体であるモノリスは、宇宙をワープし場所や時間を超越していく物質/非物質の分岐も定かでない謎の黒い存在であり、一種の「穴」つまり底なしのインターフェイスとも解釈できる。ソラリスの白い海は、観る者の記憶や想念をインタラクティブに反映し物質化する液状のリソースであり、「ミラーレス・ミラー」を想起させる。黒と白、幾何学的存在と流体と対比的に見えながら、いずれも近代的な分類を超えていく変幻自在な可能態といえるだろう。 かつて手がけたメディアアート・インスタレーションに、ソラリスの海を起点とした《polar》(2000)*10がある。本作は、10年後に同じアーティストとキュレーターで《polar m [mirrored]》(2010)*11を制作したが、ここでは前者に出てくる体験者が入っていく半透過の空間(7×7m)がミラーのようにダブルとなり、一方は人が入れ(内部観察的)、他方は入れない(外部観察的)構造になっている。トポロジー的には前者が穴を持つ、とともに両者とも半透過であることで、内部/外部の(そして内部/外部観察の)境界が曖昧になっている。 近代科学においては、観察する主体と対象とを分離することで世界を静止的に把握し記述してきた。しかし20世紀初頭以降、観察者と対象は切り離せず、動的な関係を持つことで世界を把握していく時代へと移行した。ミクロやマクロの時間・空間スケールでは、近代科学が把握してきた(人間を中心とした)統一的な世界像がことごとく裏切られていく。世界では、組織化と分散が常に生起しており、既存の物質/非物質、固体/液体など、対立項とされていたものが、実は動的なプロセスの中でつながっていることが浮上する。 シュルレアリスムは20世紀前半において、時間や無意識に向き合うことで近代や人間中心主義に疑問を投げかけた。それは社会や時代への危機感に根ざしたアクチュアルかつ批評的な挑発でもあった。「モノリス」や「ソラリス」、そして「SPACE TOTSUKA '70」を、1970年前後という時代においてシュルレアリスムの系譜として捉えることができるのではないか。 近年人類学の領域では人新世を念頭に、「モア・ザン・ヒューマン」つまり人間を超えていくことを志向する「マルチスピーシーズ人類学」が自然科学や人文科学の諸領域を横断しながら検討されている。そこではアートそしてパフォーマンスが重要な要素として含まれている。「わたしの穴 美術の穴」は、このような動向と連動しながらシュルレアリスムを現代において拡張していく実践ともいえるだろう。

VII. 反射や反映の只中で

「穴」は、宇宙における「ブラックホール」や「ワームホール」など、巨大な重力によって時空が歪んだ異次元としても捉えられる。現在の宇宙科学ではまた、宇宙はそのほとんどが原子ではなく「暗黒物質(ダークマター)」で占められており、太陽系を引きとどめている重力も暗黒物質であるという。暗黒物質は、原子とは異なるものの「物質」らしく振舞い、宇宙が膨張すると密度が薄まるという。 宇宙には「反物質」があるという。「すべての粒子には性質は同じで電荷だけが反対の「反粒子」が存在し、したがってすべての物質には「反物質」が存在する。ビッグバンの瞬間には、物質と同じだけ生まれたはずだが、現在の宇宙には自然状態で存在する反物質が見当たらない。これも大きな謎」と村山斉は述べている*12。「反物質」は、宇宙が実は構造的に一種の「ミラー」を要請すること、そして「物質」と呼ばれる言葉が、必ずしもヒューマン・スケールの「もの」を表してはいないことを気づかせる。 といえども世界には実際に物質が存在し、物質には質量がある。そしてその「質量」を生み出しているのがヒッグス粒子であるという。1964年に英国の理論物理学者ピーター・ヒッグスが提唱したが、2013年にCERN(欧州原子核研究機構)のヒッグス粒子発見用の実験施設でようやく見つかり、実に約半世紀後に実証されたことになる。ヒッグス粒子は、できたその場で崩壊し別の粒子に分裂、それも複数の粒子に分裂し次の分裂も複数にわたるため、その存在を確定することが非常に困難とされる。 飛躍的な想像だが、ヒッグス粒子の特性である事後的に生まれたものから遡るしかない寄る辺のなさが、「ミラーレス・ミラー」のあり方に重なって感じられる。展示全体、そして個々の作品それらの制作過程で起きてきた様々な出来事——その反射や反映のプロセス——から、それ自体が存在し、ここにある事物やイメージの起源になりながらも到達することが困難な何か……。展示では(ヒッグス粒子の観測のように真実に到達することではなく)現象や想像上の反射や反映の只中で、その起源を探しながらも、結局そこから離れて彷徨いつづけることが重要であるだろう。

二つの展覧会は終了した……しかし展示は継続されている。高石晃が造形した作品は、床下に今も存在する(大雨などで崩壊し、土に戻っていく可能性もあるだろう)。壁の中には、雨宮庸介の手鏡が暗闇にひっそり佇んでいる。これらの存在から見た人間、ギャラリー、東京、そして世界を思う。 いやこれらの作品からだけではない。私たちは暗闇、無意識、不可視の底から今も観られ、同時に観つづけることを託されている。「地底人」と「ミラーレス・ミラー」で開かれた世界は、記憶や想像の中そして日常の中に存在し、私たちを揺さぶりつづけてやまない。

*1 東浩紀「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」『ゲンロン10』ゲンロン、2019年 *2 同上 *3 「「マンモス展」は、マンモスだけじゃない!血液と尿が採取された「古代仔ウマ」完全体冷凍標本の世界初公開決定!」IT Life hack(2019年4月19日)。itlifehack.jp/archives/1002942… *4 入口手前の階段下では、多田圭祐《Heaven’s Door #4》(2022)の斧入れの映像がディスプレイから流れている。 *5 ASMR(Autonomous Sensory Meridian Response):知覚刺激が脳に伝達され、他者の感覚が乗り移ったかのような感覚を得ること。
*6 パフォーマンス《blooming dots for Ukraine + 31 eyescream》本書所収、M-22–23 *7 会誌編集委員会「ガラスは固体? 液体?」日本物理学会(2016年)。www.jps.or.jp/books/gakkaishi/… *8 小池真幸「スマホも食べ物も土からできている。土壌学者に聞いた「非」再生可能な土の未来」Yahoo! Japan SDGs(2022年10月11日)。sdgs.yahoo.co.jp/originals/132… *9 蛇といえば、諏訪湖ではないものの、この地域の池で蛇としての自身に対面した甲賀三郎も想起される。 *10 カールステン・ニコライ+マルコ・ペリハン《polar》(キュレーター:阿部一直、四方幸子、キヤノン・アートラボ、2000)yukikoshikata.com/artlab10-pol… *11 カールステン・ニコライ+マルコ・ペリハン《polar m [mirrored]》(キュレーター:阿部一直、四方幸子、山口情報芸術センター、2010)www.ycam.jp/archive/works/pola… *12 村山斉『宇宙は何でできているのか 素粒子物理学で解く宇宙の謎』幻冬舎新書、2010年